数年前、翻訳の名手で米文学研究者でもあられる私のヒーロー、柴田元幸先生からサインを頂けました。
私はライミングが愉しいM・カイラー作、Chicago図書館「ベストオブベスト」受賞作の「the Little Dump Track」を翻訳したことがあります。翻訳の奥深さをほんの少し覗いたことがある身としては、柴田元幸先生は神です。
翻訳は自分の読書体験の再現だ、近似値を取る作業だなどなど、神からの言葉は説得力がありました。
「小説は冗長性があるけれども、詩のような短い文の場合の翻訳は工夫が要る」とのひとことがあったとき、絵本の翻訳に命かけたあの日々が報われる想いがしました。
今、世代間だけでなくてあらゆるメタバースが生まれています。格差、断絶とも言われますが同質性が高いとされる集団であっても、もともと個人は千差万別であることが鮮明になっただけともとらえられるかと思います。
加えて、非言語情報がどうしても削がれてしまう、オンライン上の対話の場面も増えました。
書籍の翻訳は言語情報のみを扱っているようでいて、つまるところは非言語情報をいかに汲み取り、移し取れるかなのです。
コミュニケーションにおいても、そうした「翻訳」「転化」する心がけが求められ、工夫していくことを余儀なくされる時代となりました。
面倒と思うのか、新たな感覚比率の設計に参与できるとわくわくするのかは自分次第。